瞳の休憩室「Rest eye」

有栖の目線

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推理作家の有栖川有栖が、独自の視点でミステリーや日々の感性をつづります。

第一回 呼び名の多い病気

このエッセイの仕事をいただいたちょうどその頃、左目まぶたの下が化膿炎症を起こしてしまった。麦粒腫……というと聞き慣れない響きだが、要するに〈ものもらい〉である。
原因は自分でよく判っている。本を読みながら不潔な手でごしごしと擦ったのがよくなかった。片目だけダメージを受けたのは、もともと私の左目の視力が弱いことに関係している。

どうして目を擦ったのかというと、それはひとえに老眼が原因だ。私は五十歳になるまで眼鏡いらずの生活を送ってきたのだけれど(この年までよくがんばったと思いませんか?) 、さすがに老化現象は避けることができず、このところ細かい活字が読みづらくなってきている。視力が減退しているのを自覚しながらも、ついそれを否定したくなって、「あれ、文字がかすむ。特に左目が見にくい。何かついているのかな」と目をごしごしやってしまったのだ。

目薬を注せばじきに直るだろう、と思っていたのだが、うっかりまた左目を擦ってしまい、悪化させてしまう。一週間たっても腫れが引かず、そうこうしているうちに大勢の人前に出たり写真を撮られたりする予定の日が近づいてきたので、やむなく眼科に行くことにした。眼科のお世話になるなんて、小学生の頃以来である。

駅前のビルに入っているクリニックに行き、治療を受けた。薬も出してもらったのだが、どうもタチが悪いやつにかかったらしく、簡単には治らなかった。数日後に再び受診すると、ベテランの女医さんは――。
「一番強い薬を使うたんですけれどね。早く治したい? それやったら膿を出してしまいましょか」
「そうしてください」とお願いして、寝台に横たわる。けっこう痛いことになると聞いていたものの、必要に迫られていたから仕方がない。
「痛いですよ。ごめんなさい」

先生は針を使いながら、しきりに恐縮する。
「すみませんね。ちょっと辛抱してください。痛いですね。ああ、イタ」

場所が場所だけに、怖かった。そして、しっかりと痛かった――のだが、先生の言い方がおかしくて笑いそうにもなる。寝台の上で身もだえした。

治療後、一日ほど眼帯をして過ごすことになり、少しだけ不自由な思いをした。右目はしっかり開いているのに、街を歩いていて小さな段差に気がつかずに転びかけたり、方角を間違いそうになったり。注意しないと危ないぞ、と思いながら、面白い錯覚をしたらミステリのネタになるかもしれない、と期待したのは職業病だろう。

前に〈ものもらい〉と書いた。それは東京をはじめとした東日本でよく使われる表現で、大阪人である私はこれを〈めばちこ〉と称する。〈めいぼ〉〈めんぼ〉〈おひめさま〉など麦粒腫には各地にさまざまな呼び方があるらしいが、〈ものもらい〉と〈めばちこ〉が二大勢力だ。ちなみにお隣の京都は即物的に〈めいぼ〉と呼ぶそうだが、私は五十になるまでそんな言葉を聞いたことはなかった。
ものもらい・めばちこ。
どちらも変な言葉である。何故そう呼ぶのか? 興味が湧いて語源を調べたところ、諸説あって面白かった。〈ものもらい〉は、物欲しそうにしているとこの病かかるから、あるいは、人からものをもらうと治るから。〈めばちこ〉は、これになると目をパチパチするから等々。
痛い目に遭いもしたが、おかげで少しだけ物知りになれた。転んでもタダでは起きない、というやつだ。
とはいえ、わざわざ転んで痛い思いをする必要はない。だから、どうか皆さんも目を大切に。

推理作家・有栖川有栖のプロフィール